Markey's Osaka West "Oba-han"River-side Blues......

       ── ひらりひらひら きままな稼業 風に吹かれて 東へ西へ

2014年10月7日火曜日

久々に

ブログに書いてみたいと思います。

あれから 3年。いろんなことがあったようで、なかったようで。
子供がいるので強制的に時は流れます。

ちいさかった子も もう高校1年生。
大変で楽しい、飛び散る花びらのような青春期です。
大事に大事に、楽しく過ごしてね。

2011年6月16日木曜日

自分の思いを素直に伝えた言葉に、意に反して過敏な行動をされたとき、やっぱりつらいね。

いきなり薄い刃物で目前を掠められたように感じてしまった。
何もそこまで…と、かなりのショックを受けました。
言わなければよかったね、貴方に対する私の察しが悪かったんやね。

昨年の夏、ある人に言われたきつい言葉を思い出してしまった。
たぶんあれは、一生残るなあ…

とても安全な場所から見下ろした言葉だった。

それは真実ではあるけれど、やっぱり人間、言っていいことと悪いことがあると思うねん。
でも、同じことでも違う人が言えば、全然ニュアンスが違ったと思うわ。

これはなんでやろ?やっぱり根底のパーソナリティによるもんか?

たぶんそうやろな…

しばらく、どこかでなんか言うのは控えよ。しんどいわ。

2011年5月7日土曜日

Her high school days, It was 60 years ago.

朝、ぴん子とまりりんとライフのあたりまで散歩に行って、帰りに商店街近くのパン屋で買い物をしたら、カーネーションをサービスでくれた。

店主のおばちゃんは私の顔をまじまじ見ながら一瞬考え、そしてカーネーションをつけてくれたのだが… 前にレジをした子ども2人とお父さんのお客には、子どもに「家へ帰ったらお母さんに渡してね」と、カーネーションを1本ずつ渡していた。

私のお母ちゃんは34年前、私が高校に入ってちょうど1週間目の桜の散る頃に急逝した。ひと晩で。
44歳だった。
あまりにも若い、今から考えると。

どうしても、もうひとつ上の公立高校に私を入れたかったらしく、中学後半は鬼のように喧嘩をした。
私は入れないだろうと思っていたし、何より高校に入って勉強ばっかりで大変な思いをするのがイヤだというのが最大の理由だった。
いろんな友人や年上の人の影響でロックやピアフやソウルやらと音楽聴いたり、ギターやピアノを弾いたり、絵を描いたり、楽しいことを中学時代に覚えてしまっていたからである。


今はスリッパで私をドツキまくっていたお母ちゃんの気持ちがわかる。
自分が薬大(一浪)を出て結局は電器屋の嫁はんになって苦労したので、私には医療系、できれば女医になどと言う不遜な考えも持っていたようだ。そらムリやでお母ちゃん。


新制高校開始時である
事実、泉尾高校時代お母ちゃんの親友だったT女史は、薬大も一緒でその後医大に編入して耳鼻科の女医になり、神戸の山手で開業し、当然結婚の必要はなく、早々と店じまいして世界各国行くところはもう北極点以外おまへんという状態になっている。社交ダンス暦も長いのがこの人だ。
独り暮らしで今も元気元気、足腰弱ったら入るところの準備も十分だ。
ワタイより全然似てるよなあ
御年79歳。ここまで来たら、もう、終わり方の予定と現実にそんなに大きな誤差は生じないであろう。

最後まで人生をしゃぶりつくすのは、
やはり一部の女である。
でも、T女史はすべて自分の力で成し遂げてきたことなので、本当に偉いと思う。
当時は医者の世界でも、女医に対する風当たりは生半可なものではなかった筈だ。

お母ちゃんは常々、
「アンタはブサイクやから勉強して仕事ができるようになり」と言っていた。
顔から想像できるように、ものの言い方のヒドイ母親だ。

そういう生き方もバリバリにはまっとう出来ず、かといって違う方向のキャラにもなれず、
私は人生ウロウロしている間にどっちも中途半端になった。

ごめんなぁ。そやけど、お母ちゃんの言い方が大概悪かったんちゃうか?(笑)
とか言うたら、またスリッパ持って怒るわなあ。

2011年5月3日火曜日

ずっと夜明け前

GWはなんか、ずっと原稿書いてるんですが…
服やら書類やら片付けないとアカンもんがいっぱいあるんやけど、
常に目先のショボイ仕事に追われて手が回らない。


まりりんの勉強もいよいよ見てやらないとイカン。栄養も考えて、メシも作らないとアカン。

今朝も数学の宿題でひと悶着あったが、 ワシ、元々理系はできへんのにますますボケていて、
中1でもよ~ぉ読まんとホンマにわからんよ…(泣)
クージーさん、家庭教師してくれまへんか~?? (笑)

当のミーハーなまりりんさん、勉強の仕方がまだわかっとらんのやけど、「阪急電車」読みたいというので、まぁ流行もんやけど何でもええか…と読ませたら一日で読んでしもた。そら読みやすいもんねあんなん。
で、どっかで聞きかじってきた太宰を読みたいというので、それやったらこれはどや!と、最近何作かをまとめて編集しているものすごい分厚い文庫を与えたら何とか読んでるみたいやけど、まぁわからんやろなぁ。まあ濫読でもなんでもええか、読めへんよりマシやわ。

連休やからまりりんの友だちが来てクッキー作ると言ったら、面倒も見んとアカンし…
おちおち座って仕事もしてられへん…
というか、ちゃんとじっくり一緒にやったられへんのが悲しいわ。


大きな問題はもうずっと手付かずやし、改善する気配はないし、このままではホンマにイカンし。

まあ自分がトシいってきて、万事にトロくなっているのが本音であるが。
現時点でこの状況はほんまツラいのぉ~。はっきりいってもうどうでもエエと思っている自分がいる。

あ、雨が降ってきた。篭ってたらババくさい愚痴ばっかりでイカン。
今日は、家で仕事してて雨に逢わずによかったかもね、と思ってみよう。
とりあえず状況グッチャグチャでも、老化はあれど健康なのと寝る所があって、
今夜の食べ物があるだけでヨシとする。明日はわからんが。

2011年4月29日金曜日

再会

南森町のはずれ、東天満の交差点近くにぽつん、とあるお好み焼き「てんご」。

関西スポーツDJの草分け、マーキー(今は“谷口”つけないみたい)の嫁さん、えりちゃんが営む店である。
DJブースがある店内

どんな事情があるのかは知らないが、からだがもうしんどいのか不景気なのか、今月いっぱいで閉めるということで、昔のアメリカ村仲間が集まろうと声がかかった。スミさんがみんなに声をかけたらしい。えりちゃんは閉店後、東北にボランティアに行くと後で聞いた。スゴイ、やっぱりパワフルや。

まりりんを連れて、私は初めての訪問だ。
金さん、絶好調でした
集まったのは繁さん、スミさん、とんぼちゃん、成金さん、 みっちゃん。それから、名前を知らない人2名。30年以上前、アメリカ村がまだ長閑な“北炭屋町”だった頃の面々だ。
師匠登場したけど、まだ病み上がりで調子悪いとのこと

松太郎、ほんまにデカい…
三角公園のたこ焼き屋はまだ小さくて家族だけでやっていて、その横にはあの“エルパソ”があった。サーフショップは“ラハイナ”、“アワーハウス”、古着は“My Way”。リーバイスとコンバースとヘインズ。初めは、この町にもそれぐらいのモノしかなかった。

繁さんは今でも長堀でレッドウィングの修理の店をやっている。昔からワークブーツ大好きだったが、ホントに好きなのだ。病気をしたという とんぼちゃんがそう呆れたように笑う。
店によく連れてきていた赤ちゃんのクーニンがもう30歳で、茂さんと一緒に店を切り盛りしているという。おっさんになったもんだ、時間の経過が恐ろしい。

表で飲んでいると、タクシーが止まって帽子の男性が降りてきた。マーキー氏が来た。
病気でラジオも休んでいたようで、ちょっとだけ立ち寄った、とのこと。彼だけはあまり流れた時間を感じさせないルックスだ。流石芸能人。
でも、昔のキリキリ尖った雰囲気がなくなって、シャープだけど静かな空気をまとってた。

ピレネーの松太郎には初めて逢ったけど、大人しくて深遠な犬だった。
スミさんのジャージ…60前のオッサンです…

みんなに平等に時間は流れた。あの頃はいろんな人が変わりばんこに順列組み合わせのように喧嘩して、悪口を言って、時々殴り合いもして大騒ぎになって、でも、みんな若くて不安な未来を持っていて、まちの進む道さえわからないアメリカ村で、いろんな夢を描いてた。
私はまだ学生で、隅っこのアルバイトだったんだけど。みんながすごくパワフルで、毎日何か新しいことが起きて、海の向こうからやってくるいろんなモノや情報は、グリッターのようにキラキラ光ってた。
左のお二人、どなたでしたっけ???

表の席でご機嫌になったスミさんが店のお客の若い女の子に、その頃の話を熱心にしていたが…
結構面白そうに聴いてたねえ、あの子たち。好々爺の昔話だが、今の時代より確実に夢のある話だもんね。

あと何回位集まれるんだろう。あのヒトと、あの人にも逢いたいね。

今日は501よう売れた!店が終わったら、チビラも大人コウジも子どもコウジも皆で百番行くで~!!マーキーとこに誰かおったら誘おうか。あっ、さっき、タンクも放送局の打ち合わせ終わって来たんちゃう?って、懐かしいね。田垣さんとこまたヘンなもんフランスから仕入れたみたいやな。
もうちょっと飲みたくなったら、あとで3人だけで、吉田バーいこか。

とんぼちゃんは娘がほしかったそう
そうそう、クージーさん。またどっか行ってはったんですか、顔真っ黒けですやん。いやどこどこ行ったら病気物凄い流行ってたんやけど、俺は何でか知らんけどならんかったわ、とかいろいろ言うたり、してましたね。
あの、三ッ寺にあった昔っぽい飲み屋の名前、なんでしたっけ?みんなよく行ってた。

ネットも携帯もデジタル機器もなかったけれど、入れ替わり立ち代りいろんな人がやってきて、逢って、話して、思いついたことやってみて。面白くて楽しくて、それだけで毎日が過ぎていた。

私もこの町に、この店にいたことがその後に大きく関わるのだけど、残念ながらあまり結果はよくならなかった、今のところは。これはちょっと笑うしかないけど、昨日逢った人たちにまた、少しずつ、いろいろ話してみようかな。 いや、この場所に居た人たちなら、いきなりな話をしてもきっと言わない何十年かの中味を察してくれることだろう。

2011年4月24日日曜日

'70sはもう、見えなくなる彼方へ

出張先の姫路。お友達もできて楽しかったおでん屋から帰り、ホテルで大浴場に貸し切り状態で入り、低アルコールのビールをプシュと開けながら上機嫌でTVをつけると…キャンディーズのスーちゃんの訃報?え?

ある年代以上の人間には誰もがそうだったろうけど、あまりに唐突な報道で…

ああ、でも55歳か。何があっても全然おかしくない。 でもちょっと早いな。

昨日の金曜の夜は、全国の飲み屋でオッサン連中が追悼の盃を重ねていただろう。
で、今夜の土曜の夜は、独りで動画を観たり、レコードを引っ張り出して聴いて涙の深酒になる、という様子が目に見えるようである。

Youtubeがポピュラーになってから、キャンディーズ然り、トシちゃん然り、改めて70~80年代のアイドルを動画でちゃんと見る機会を得たのだけど、なんと今に比べてトータルのレベルの高いことか。
キャンディーズはデビュー曲はまだしも、その後がパッとしなかったのだが、ランちゃんがセンターに来た例の「年下の男の子」でブレイクする。

いろんなヒット曲をYoutubeで見たけど、 「年下の男の子」はデキシーランド・ジャズ調、「やさしい悪魔」「アン・ドゥ・トロワ」はいわずと知れた拓郎の作品。「わな」はラテン、「その気にさせないで」はスリー・ディグリーズ風歌謡ソウル。いろんな試みしてたんやなあ、改めて聴くと。


キャンディーズには、こういう実験的な試みを受け入れて消化する能力が必要だったし、またあったのだろう。

全方位的に管理プロデュースされて、その設計図の中で求められるアクトのみをこなす今のアイドルとは技量が違うな。
その当時はそんなこと、全然気づかなかったんやけど。
私たちが若かったとき、親の世代の懐メロを聴いて「カッコイイ!凄い!」とは思わなかったけど、平成生まれの子たちはYoutubeみて、昭和のアイドルやスターに驚いて嵌るパターン、多いみたいやね。

今の音楽業界はやっぱり大変だ。
メディアが多様化してしまった上に、こうやって「過去」が恐ろしく力のある競合になってしまったのだから。

2011年4月13日水曜日

高津神社とウクレレ

高津神社、何年かぶりにお花見にいったんやけど、今年は出店自粛でぼんぼりもなく空間のイメージがまるっきり違っていた。

いつもは出店に仕切られて、空間自体がもうちょっとクローズドな感じだったのだが、いやにオープンなのだ。
ちょっと面食らいながらも、大川べりのようにそうそう遠くからは人が来ない場所なので、休日でもまったりと楽しめてお気に入りの花見処だ。
まあ、周りの環境は生玉近辺やし、アレやねんけども…


ちいさいときから、日本橋一丁目(住所は高津だった)に住む叔母に連れられ、
よくここの神社の夏祭りや盆踊りに来た。
叔母は昔で言う東櫓町(今は場外馬券売り場?)で長年続くバーを営んでいたので、
ここらへんの色町の事情には詳しかった。

高津神社の盆踊りは浴衣姿のキレイなオカマや不細工なオカマが大勢集まり、思い思いに踊りを楽しんでいて、ちいさな私は可愛がられていろんなオカマに飴細工を買ってもらったり、
一緒に金魚すくいや射的をしてもらった。
射的なんかになると、オカマは完全に素のオッサンやったな…

潤子叔母は、白い艶のある浴衣に菖蒲の裾模様で、
きり、として境内のアセチレンの灯りの中で綺麗やったね。
もともと芸事が好きで宝塚の男役にもなりたいと思っていたらしい、整った男顔の人やった。
泉尾女学校時代の写真も、凛々しい「お姉さま」という雰囲気だ。

この叔母の旦那(正確には結婚していないが)が、ずっとオアフに住んでいたのでした。
潤子叔母、生涯男運はよくなかったねぇ。その代わり好きなように生きたけど。

まぁあの頃やから相当良い時代もあった訳で、最後はムチャクチャで物凄い振れ幅やったけど、
結局はイーブンかな。そやけど結局同じ平均律でも、あんな激しい乱高下はしんどいな…

で、30年以上前の高校時代にオアフの義理叔父の元を初めて訪ねたワタシは、
今ちょいとその頃を思い出しながら、ウクレレを弾きたいと思っているのです。