Markey's Osaka West "Oba-han"River-side Blues......

       ── ひらりひらひら きままな稼業 風に吹かれて 東へ西へ

2011年1月26日水曜日

-Osaka University of Arts- 母校アドベンチャー

はー、冷や汗モノの大森監督(教授だ)取材が終わり、いろいろ独特の矛先で突っ込まれながらもなんとか終え…
(同行の担当者は世代が下で監督の名さえ知らなかった!しかしいくらなんでも、情報産業におってそれはナシやで)

けれど監督はクリエイターズユニオンの田中社長が仰ってくださったとおり、芸大内で教壇を離れているときには、気さくで独特の個性をお持ちの、結構大柄な、関西のオッチャンでした。
プロフには芦屋出身とあるが、小学校までは針中野で生まれ育ったとのこと。100へぇ(古)だ。

教務課・入試課の方とも親しい間柄なのかも知れませんが、近所の知り合い同士のような会話で冗談を言い合っておられたし…
こういう教授と学校スタッフの関係はあまりみないので、ちょっとびっくり。お人柄かしらん。

映画ドシロウトの私相手によくまあ1時間半もお話くださったものだと大感謝です。
ホンマにすんませんでした。

私自身がOGなのでやはり気楽で取材もしやすい。
学校スタッフもOGというとガラっと態度をやわらかくしてくださる。
芸術系なので、そこには独特のシンパシーが存在するというわけです。
それはお互いの建前の裏側にある、どうしようもない切なさや自虐的な思いや、幸せの感じ方や、どんな感覚がこのヒトと一致するのかなという楽しみや、まあ、そういうことです。

で、次の教授取材まで時間があったので、クールダウンも兼ねてキャンバス内をウロウロ…

私が通っていた頃そのままの校舎もあるし、立派過ぎる芸術劇場や映画館が新設されていて驚き。
目が合ったら後ずさりするのか











さすがに建築意匠は凝ってるねえ。しか しカッチョええ学舎の扉に「イノシシ注意」の掲示があるのはワロタ。教務課の人が「去年学生がマムシに噛まれて病院送りになった」と言っていた。マムシは 私の時代にもいたが、まだいるのか。よく忍者研究会が裏山で修行(?)してて、噛まれたとか騒いでいたっけ。

放送学科の学生サンがロケバスを出して撮影していたのでいろいろ話をさせてもらった。
熱心に撮ってるね。でもまだ1回生だそうで、専攻は分かれてないんだとか。
放送学科は編集制作、アナウンス、 広告、くわえて声優コースもできたそうだしジャンルがバラバラだけど、だいたい皆目的は決まってるわな。これだけバラバラだったら迷いようもないな。

しかし芸大はさすがにお金持ち。サンだかの地上波で芸大TVみたいなのスポンサードして放送してるんだってね。
阪大みたいに学内放送を制作してるのかと思いましたが、違うんやね。
自分とこでコンテンツ制作するから、安上がりといえば安上がりかぁ。

私が現役時代よくいたエリア、あまり陽の当たらない裏手の中庭がある、当時デザイン学科だった校舎。
デザイン学科は当時グラ・インテ・IDの3つだけだったが、今はさすがにそれじゃ足りなくて5コースに増え、校舎も大きいところに移っている。

この節操のない庭と二人の雰囲気がいい絵だ
工芸学科のお二人が卒業制作の写真を撮っていたのが絵になっていたので。
お話を聞くと、工芸や美術学科は変わらずこの中庭周りの校舎らしい。汚れたツナギ着た学生たちが薄暗い中庭をウロウロしたり、デッカイ物を運んだりしている光景は、あの頃とあまり変わらない。特に彼らは制作作業を学校のみですることしかできないので、あたかも住んでいるがごとくに四六時中、学内にいるのだ。
お二人の卒制


エディトリアルデザイン習作の展示
なんだかんだいっても、芸大で徹夜したりさっむい寒い教室で残って作業したり、毎日ドロドロになって汚れて、作品作っては悩んでぶち壊して時間がなくて泣きそうになってやり直して、そういう日々を若い時代にすごせるのって、楽しいし幸せやよ。

こういう道へちょっとでも進むと、後々ほんまに悩んでエラいことになって人生波乱バンジョーになる可能性も大きいのですが、まっそれはそれ。だから昔は芸術系に行くなんて、親は反対したよね。

が、ワタシの学生時代親しかったインテの友人もこんなに立派になっておる!いや学生時代も優秀やったけどね。
彼は相当なサクセス例だ。卒業後ほとんどすぐに東京へ出て、その後かなりの努力と、運もあったのでしょう。

スピン・オフ 主宰 塩見一郎氏
http://toyama.smiles.co.jp/archives/1153083.html
http://www.lovethelife.org/life/archives/2006/07/gelateria_bar_natural_beat.html
http://job.tenpodesign.com/article/archives/2007/06/case03.html#more

何事も強い意志を持ってなせばなる、のだ。
差す陽が作る影が計算されている
塩見氏は現在、国内インテリアデザイン界、とりわけ店舗デザイン界で知らない人はいないだろう。

私たちの時代は、学卒後は東京で仕事をするかどうかがひとつの命運を分けたと思う。
才気あるヤツはみんな伝を頼りに、または何もなくても、若さと希望だけ持って東京へ行った。
カメラマンの事務所に潜り込んだり、広告代理店で雑用のバイトにありついたり、設計事務所で過酷きわまる丁稚をしたり。
そこからスタートしてチャンスを掴んで大きくなった人物が、数少ないが、やはりいる。

ワタシの1年上にグラフィックデザインにいて、学生ながらなぜか副手をしていた松尾 貴史氏もそのひとりだ。本名は「岸」君。Wikiにも記載があるがあの時代、キタのディスコ(まだ「クラブ」ではなかった)で遊びまわってDJをしたりしていて、メディアの人間と知り合ったのが彼のスタートだ。

とにかくこの道、アイデアや才能以前に、まずは「続けられる」体力勝負だぜ。
がんばれ、放送学科の 井上 和紀クン と 猪股 駿斗クン。

放送関係でテクニカルやディレクター目指すなら、とにかくまずはボロカスこき使われてもメゲない体力と精神力だ。あとは基本として最低限英語がハンドルできること。英語で日本語以外のネイティブとコミュニケーションできる能力は放送人にとっては特に必須だ。ロケにしても取材にしても調べ物にしても、英語もできなけりゃ何もできない。
翻っていえば、イマドキ英語だけがいくらできても仕事にならない。何か他のことがプロとしてできて、英語は手段として当たり前にできなければツライ。

そしていちばん大切なことは、「業界の常識」を世間の常識と思わず、しっかり社会的バランスのとれた人材になってほしいと望みます。取材する側に回るのなら、それが絶対に必要だ。
放送・マスコミ業界が少しでも真っ当な社会性や、社会的品位を保つためにもね。

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