気がつけば、結構ケチな距離の移動を繰り返しているこの頃なのだが…
ふだんほとんど飛行機に乗ることはない。 最後に海外へ行ったのはもうかれこれ13年前だ。
イタリアだった。ベネツィアは行く前の大雨で冠水していて、観光どころではなかった。
フィ レンツェのちょっと小汚いオステリアでの食事が美味しかった。
高い観光客相手のリストランテになんていかなくても、イタリアのオッサンが集 まる場末のような店でじゅうぶん美味しいものとワインが楽しめた。 まあどこでも場末が性に合っているのだ。
あっち では本当に夜の11時ぐらいから誰もが食事をするために店が混んできて、いい中年のカップルが、前菜としてのパスタをガバガバ食べながらワインをこれまたガバガ バ飲んで、機関銃のようにどちらもしゃべって3時間ぐらいかけて食事をとっているのを見て驚いた。
ありゃ食事が終わるのは夜中という か、すでに翌日になっちゃうわ。
飲食店に限らず、店という店に全部昼休みがあるのも納得できた。みんな夜中まで活動しすぎで、夜中まで食べ 過ぎ飲みすぎで、翌日昼寝しなけりゃそらもたんわな。
あと、イタリアでよかったのは、靴や洋 服のサイズがワシ向けのも十分あることだ。
やたらとデカくて買う物がないアメリカやカナダとは違い、イタリア人には体格が小さい人がいっぱ いいる。これは驚きだった。ハイブランドの極めてスタイリッシュなイメージがあるので、売ってるのはトールサイズばっかりだろうと勝手に思い込んでいたが、デパートなんかに行くとヨーロッパサイズで34や36、丈感もショートなものが沢山ある。日本の平場と変わらない。靴も小さいのが普通にある。
これは喜ばしかった。アルマーニにも 小さい服がいっぱいあってびっくりした。
ハイブランドにも小さいサイズがあるのかー。なんだか衝撃だった。
それから、わかっちゃいたけどイタリア男の生物学的「オス」としての正しいあり方に感心させられた。
安ツアーだったので夜中にローマのホテルに 着き、ボーっとした頭でTVをつけてみると、とにかく男性用の伊達磨きアイテムのCMがこれでもかと絨毯爆撃を繰り広げている。しかもその映像がいちいち過剰な セックスアピールに満ち満ちている。モノクロの映像で、だいたいが男性の肢体をなめるようにパンしていくのである。そのカメラワークがほんまにしつこい。
誘惑には欠かせないパヒュームに始まり、ボディシャンプー、ヘアケア用品、アウター、下着、靴、メイク用品、時計…
低 音のセクシーなナレーションが、「uomo affascinante~」とか「bellissimo~」「L'uomo piu' sexy」とかばっかり言っている。もうそれらのCMの数や、連発どころの騒ぎではない。
で、当然のように映像がいちいち格好いい。流石イタリア、デザイン大国の名は伊達 じゃない。特に下着のCM量が半端ではなく、恐ろしく広告自体も気合が入っている。イタリア男は下着でそんなに勝負するのかー。へー。ほー。
と 見入っていて、孔雀や古代エジプト人を思い出した。
元来オスは生物学上、美しくあるべきなのだ。そのために着飾らな ければならない。ブサイクなオスは遺伝子を残せない。オスこそなんといっても美しくあるべきなのだ、という明確な主張が感じられ、それは理屈もクソもなく 非常にわかりやすい。なんというか、人類、いや、生物の根源に関わる部分を恥じることなく主張していて、それが非常に小気味よく感じられたのである。
い ろいろ屁理屈こねたところで、オマエら男の外見としてファッシネイティブなんかいオラー、ブサイクは負けやぞワレー、という、ある意味グサーっと真正面から斬り込んで来る残忍さである。まあ一種の威嚇広告ともいえるが、これ日本の男だったら完全に打ちのめされてしまうんじゃないの。
が、しかし。
たしかにイタリア男はカッコエエのも多いと思うけど、ある年齢になるとイタリア 人ほど「オッサン」という呼称がピターッと嵌ってくる欧米人もいないと思う。
「フランス人のオッサン」「ベルギー人のオッサン」といってもイマイチピンと 来ないが、「イタリア人のオッサン」というと具体的な画像が直ちに脳裏に浮かぶ。
なんでや?なんで洒落のめした伊達 コキのイタリア男が、かくもイージーに「オッサン」へと陥落するのか??間はないんか間は。
なんか、【ウォモ】に登場するようなカコエエイタリア男と、禿で腹の出たイタリアのオッサンと2分類があって、そのふたつの間には何の相関関係もないような気さえするのだが、いや、確実に2者の間には時間を媒介とする密接な関係があることは明白だ。
なんでや????
Markey's Osaka West "Oba-han"River-side Blues......
─────── ひらりひらひら きままな稼業 風に吹かれて 東へ西へ
2010年5月29日土曜日
Newton!!! Pippin@!!! 今日の日をどう思う???
iPadが今日発売されて、ヤマト運輸は配送パニックだったそうである。
いやー今じゃネコも杓子もiPhone、 iPadの名を知ってるもんねー。
あんだけワイドショーでもやってるもんなあ。Appleにこんな日がくるなんて。
発売前に行列ができる、Windows95のような日が来るなんて。
驚きと感慨しかない。
せいぜいiPodのヒットで、そっち方面にずーーーーっとイクもんやと、
あの時点では思っておりました。
ワシがMacを手に入れたのは、そんなに昔のことではない。
高すぎて自分で所有なんて考えられなかった。初期は医者の道楽だと思っていた。キャノン販売もそのつもりで売り歩いていただろう。
当時バブルで泡銭を儲けたデザイナーが、自慢げにIICiとかClassicを買い、ワシは遊びに行って
自慢話を雪崩のように聞かされながら見せてもらい、そのGUIを“スゲエ!これでもう座標軸使って苦労して企画書書かんでええやん!!!”とか驚愕するばかりであった。
やっとLC575を買えたのが1994年か。ひえー今から16年前か!!!
えーウッソー!!!信じられん。6年前みたいな気がするんですけど…
今考えたらこんな小さい画面でよう仕事してたなあ。
でも13inchトリニトロン管は、後のアールのきっついシャドウマスク管よりずっと質がよかったのだ。
初めて自分のコンピュータであるMacを買って、電源投入して、ガイダンスが走り始めたときは感激したわ。 アプリケーションもいっぱい知り合いのデザイナーから…(笑)
LC575の筐体も中身も丈夫で、今のPCよりずっと質が高い。
まりりんは小さい頃ハイパーカードのモノクロゲームで散々遊んで、しまいに筐体に馬乗りになって飛び跳ねて遊んでいたが、基本的に壊れていない。すごい。まさに体を張って彼女の遊び相手になってくれたのである。今のPCには到底出来ない芸当だ。
その次はPowerMac 8500/120 を飯山の21inchブラウン管モニタと一緒に買った。
大出費であった。ブラウン管の大画面モニタはひたすらデカく、乗せた机の天板がUの字にたわんでいた。
でもまあ、当時は世の中にそこそこ仕事もあったし、某堂島にある大広告代理店の仕事で人間ではないがごとくに振り回されていたので、モトは取れたような気がする。あくまで当時の範囲内での話だが。
あとはPerformaを1台買った。これはまあ、どうでもよかった機種だ。
今はG4が1台あるが、OSⅹになった頃からアプリケーションがどうにもこうにも使いづらくなってしまった。
一時はMacユーザーは迫害されたキリシタンみたいなもんであった。
いかにMacがすんばらしいかを知り合いに説いて回る“Macエバンジェリスト(伝道師)”という言い方があったが、当時はそんな草の根活動しかできなかったように思う。
Macを好きなのは医者、デザイナー、イラストレーター、ミュージシャン、一部の研究者。ハッキリ言って変人の職業ばかりだ。一般的なスタンダードにはほど遠かった。だけどそれがユーザーの心を満たしていた。
それから90年代。Newtonでコケ、Pippin@で大失敗し、互換機で皆に撤退され…
暗黒の日々は長く続いた。iPodが爆発的に売れたけど、もう以前からのMacユーザーは、
Appleは情報端末からは撤退すると思っていた。
Who could imagine the another day is comin' ???誰がこの日を想像できた???
時間はかかるが、真実は、本物はいつか必ず認められる日が来るのか?MJもそんなこと言ってたわね。
しかし今のAppleの作るものが真実なのか、本物なのかはわからない。
もう、ようわからんなー。ファッションと同じで、20年寝かせばまたひとめぐりするのか。
しかしこれは↓執念のサイトです。泣ける、というか、もう、業(ごう)の域に達しておられる。
丹念に、恐ろしいほどの労力で作られたOld Macのデスクトップのgifを見ていると、
すごいデジャブみたいな不思議な感じに囚われる。
あの時のワクワク、ドキドキした感じが蘇るねえ。いやーすごいわ、感謝感謝。
まるでこのWindowsの画面上に、68系Macのエミュレータが走っているような錯覚さえ覚える。
というか、このサイト主氏、かなり… いや、いい意味での変人だ。
いえいえ、いい意味も悪い意味もなく、初めからワシは変人にかなり好意的なのですが。
あー、この主、学校の先生か!!! 納得。
上記の爆弾画面は、このサイトから拝借いたしました。
The Vintage Mac Museum
2010年5月6日木曜日
高槻ジャズストリート
今年で行くのは3度目になる高槻ジャズスト。今年はまりりんを連れて行くことに。
嵐と関ジャニが好きなミーハー小学生なので、ジャズは到底無理である。ワシだけなら早い時間から行って目一杯ウロウロしたいところだが、彼女は何時間ももたないことがわかっているので、陽が傾いてから家を出た。
余談だがこの日は午前中に、近くのカットハウスにまりりんと行ってみた。前回はワシだけもっと近くにできたサロンに行ったのだが、そこは非常に巧いのだが、いかんせん非常に高価格で態度が居丈高なのである。上から押さえつけられるのが大嫌いなワシは、客云々とかそういうこと以前に、そういう態度を他人にとる人がイヤなのだ。
なので初めての店に行ってみたのだが、そこのオーナーが斉藤和義似でちょっと嬉しかったりしたのだ。
斉藤和義みたいに背もたかい。斉藤和義結構すきなのである。が、斉藤和義って、たぶん好きになると最悪なパターンの男だということもわかっている。
で、そのオーナーといろいろ音楽の話もした。へへへ。
そういうウォーミングアップをしてエンジンを温めてからジャズストへ繰り出すなんて、なんて 今年は素敵なんでしょ。
高槻駅についたときは午後5時近くになっていたけど、市民グラウンドまで歩いて阪大のビッグバンドを聴き、野見神社の舞台でプログレを聴き、立ち飲み屋の店先ライブ(これがよかった)を聴き…と、そぞろ歩けばライブに当たる、というのがいいよねえ。
みんな片手にビールの紙コップやハイボールの缶を持っている。
まりりんは「酔っ払いばっかしや」と言っていたけど、ジャズなんて酒飲みながら聴くもんなのよ、娘よ。今年は外国人の来街者が多かったねえ。
当然ワシも冷たくして持参したビールで地べたに座って楽しく過ごしました。
ジャズストにキレイな格好をしてきてはいけないのだ。つばのある帽子、汗拭きタオル、お尻が汚れてもいいパンツ、できれば背中にまわせるショルダーなんかの装備が必携。
しかしこれ、高槻という地域性やから成立するんやろなあ。みんなお上品、行儀もええもん。
うちらあたりでやったら… ノー秩序、大混乱、そのへんゴミだらけ、酔っ払い乱闘続出になりそうな気がするわ。
小汚い、やるせな~いブルーズは似合いそうな気がするけどな。
嵐と関ジャニが好きなミーハー小学生なので、ジャズは到底無理である。ワシだけなら早い時間から行って目一杯ウロウロしたいところだが、彼女は何時間ももたないことがわかっているので、陽が傾いてから家を出た。
余談だがこの日は午前中に、近くのカットハウスにまりりんと行ってみた。前回はワシだけもっと近くにできたサロンに行ったのだが、そこは非常に巧いのだが、いかんせん非常に高価格で態度が居丈高なのである。上から押さえつけられるのが大嫌いなワシは、客云々とかそういうこと以前に、そういう態度を他人にとる人がイヤなのだ。
なので初めての店に行ってみたのだが、そこのオーナーが斉藤和義似でちょっと嬉しかったりしたのだ。
斉藤和義みたいに背もたかい。斉藤和義結構すきなのである。が、斉藤和義って、たぶん好きになると最悪なパターンの男だということもわかっている。
で、そのオーナーといろいろ音楽の話もした。へへへ。
そういうウォーミングアップをしてエンジンを温めてからジャズストへ繰り出すなんて、なんて 今年は素敵なんでしょ。
高槻駅についたときは午後5時近くになっていたけど、市民グラウンドまで歩いて阪大のビッグバンドを聴き、野見神社の舞台でプログレを聴き、立ち飲み屋の店先ライブ(これがよかった)を聴き…と、そぞろ歩けばライブに当たる、というのがいいよねえ。
みんな片手にビールの紙コップやハイボールの缶を持っている。
まりりんは「酔っ払いばっかしや」と言っていたけど、ジャズなんて酒飲みながら聴くもんなのよ、娘よ。今年は外国人の来街者が多かったねえ。
当然ワシも冷たくして持参したビールで地べたに座って楽しく過ごしました。
しかしこれ、高槻という地域性やから成立するんやろなあ。みんなお上品、行儀もええもん。
うちらあたりでやったら… ノー秩序、大混乱、そのへんゴミだらけ、酔っ払い乱闘続出になりそうな気がするわ。
小汚い、やるせな~いブルーズは似合いそうな気がするけどな。
2010年4月28日水曜日
オバンな時間の殺し方
泉北での撮影現場が意外に早く終わり、次の本町での会議までは2時間近くある。
が、一旦帰ると出るのがしんどくなるのは見えている。なので南海電車は新今宮で降りずなんばまで出て、こういう時の場所へ行く。
あまりにもしんどくて外で少し時間が出来た時は、家電量販店へ行ってマッサージチェア売り場に座るのである。経験のある方もいるでしょう。
しかし昼間っからそんなトコで目をつぶって快楽に浸ってるのは、サボってる営業マンか60がらみのオバハンか、何やって食べてるんかワカラン、セカンドバッグに電話一本で仕事しているような人たちだ。えてしてロクなのはいないのである。
で、ワシもその仲間だ。(タイトルクリックで続く)
が、一旦帰ると出るのがしんどくなるのは見えている。なので南海電車は新今宮で降りずなんばまで出て、こういう時の場所へ行く。
あまりにもしんどくて外で少し時間が出来た時は、家電量販店へ行ってマッサージチェア売り場に座るのである。経験のある方もいるでしょう。
しかし昼間っからそんなトコで目をつぶって快楽に浸ってるのは、サボってる営業マンか60がらみのオバハンか、何やって食べてるんかワカラン、セカンドバッグに電話一本で仕事しているような人たちだ。えてしてロクなのはいないのである。
で、ワシもその仲間だ。(タイトルクリックで続く)
2010年4月24日土曜日
しばし休憩
とにかくしょっちゅう休憩ばっかりしているような気がするが…
外へ出て次の予定まで妙に時間が空いたとき、一人で入る店といえばドトールかマクドナルドぐらいしかない。
あとスターバックスぐらいだが、天神橋筋商店街や私鉄沿線の辺鄙な駅にスタバはない。
昔はカリカリとこんな場所でよく仕事をしながら、金曜の夕方は現れる人を待って連れ添って飲みにいったりしたのだが。
その時間は楽しいものだ。喧騒の中で書き物をしていて、ふっと目を上げれば約束の人が手を上げながらこちらに近づいてくる。
しかし最近は待っていても誰も来んな。
焼きが回ったな。
で、仕方なく、懐かしい回想をしながらの休憩タイムは終わり、
結局仕事はせずに机の上のものを鞄に詰め込み、次の場所へと移動するのであった。
外へ出て次の予定まで妙に時間が空いたとき、一人で入る店といえばドトールかマクドナルドぐらいしかない。
あとスターバックスぐらいだが、天神橋筋商店街や私鉄沿線の辺鄙な駅にスタバはない。
その時間は楽しいものだ。喧騒の中で書き物をしていて、ふっと目を上げれば約束の人が手を上げながらこちらに近づいてくる。
しかし最近は待っていても誰も来んな。
焼きが回ったな。
で、仕方なく、懐かしい回想をしながらの休憩タイムは終わり、
結局仕事はせずに机の上のものを鞄に詰め込み、次の場所へと移動するのであった。
2010年4月19日月曜日
泥の河
生まれ育ったところを聞かれて答えると、その人は「ああ、“泥の河”やね」と言った。
四半世紀以上まえのこと、私はまだ学生で、その人は現モノリスの社長である。
進路を考える頃に知り合いから紹介されて、業界のことなどいろいろ聞いていたときのことだ。私はまだ“泥の河”を読んだことがなかった。
高校までは公立で、みんな家庭はいろいろだったと思うが、似た様な地域から通ってきていた。それをとりたててどう、と考えたこともなかった。
ごみごみとした大阪市内の町中の、澱んだ川がそばに流れる、少し饐えたような海の匂いが朝夕に風に乗ってくる町。
小学生のときに病気で長い入院をした。白髪橋の病院から見える自宅の方角のシンボルは、灰色の円筒形のガスタンクだった。いつもそれを見て「家にかえりた い」と泣きべそをかいていた。
しかし大学に進んで世の中にはいろんな“場所”があるのだとわかった。
大学で出来た友人の住む街に行くと、そこはきれいで、真新しくて、遠くへ曲線を描いて伸びていく道路が何重にもあって、走る車や空気の色さえもちがう。
自分の住む町になんて呼べない。
長い時間そう思っていた。
今でも家は前の道路をはしるトラックの振動で揺れる。
南へ下れば、海の傍の工場に近づき、人家や店が建ち並ぶ表通りも荒涼とした色味をおびてくる。
もう少し進めば、あの「ブラック・レイン」の、錆びた巨大な、不気味なコンビナート街区。
その先の路は、深い暗い海の闇へと落ち込んでいる。
ひょっとしたらたとえば同じ高校のひとたちは、今どんなに立派になっていたとしても、
私と同じことを感じたことがあるのでは、と思う。
だからそういう者同士、会って話すとどこかしら安堵するのだろう。
自分の生まれ育った町のことを包み隠さず話せる仲間。
何十年かずっと心の奥底にしまって蓋をしてきた、そんな意識でつながっている気がする。
生まれた場所を離れて長く経ち、どんなに自分の記憶の履歴を消し去ったとしても
人生に秋風が吹く頃には、ひとは不思議とそこへ呼び寄せられる。
四半世紀以上まえのこと、私はまだ学生で、その人は現モノリスの社長である。
進路を考える頃に知り合いから紹介されて、業界のことなどいろいろ聞いていたときのことだ。私はまだ“泥の河”を読んだことがなかった。
高校までは公立で、みんな家庭はいろいろだったと思うが、似た様な地域から通ってきていた。それをとりたててどう、と考えたこともなかった。
ごみごみとした大阪市内の町中の、澱んだ川がそばに流れる、少し饐えたような海の匂いが朝夕に風に乗ってくる町。
小学生のときに病気で長い入院をした。白髪橋の病院から見える自宅の方角のシンボルは、灰色の円筒形のガスタンクだった。いつもそれを見て「家にかえりた い」と泣きべそをかいていた。
しかし大学に進んで世の中にはいろんな“場所”があるのだとわかった。
大学で出来た友人の住む街に行くと、そこはきれいで、真新しくて、遠くへ曲線を描いて伸びていく道路が何重にもあって、走る車や空気の色さえもちがう。
自分の住む町になんて呼べない。
長い時間そう思っていた。
今でも家は前の道路をはしるトラックの振動で揺れる。
南へ下れば、海の傍の工場に近づき、人家や店が建ち並ぶ表通りも荒涼とした色味をおびてくる。
もう少し進めば、あの「ブラック・レイン」の、錆びた巨大な、不気味なコンビナート街区。
その先の路は、深い暗い海の闇へと落ち込んでいる。
ひょっとしたらたとえば同じ高校のひとたちは、今どんなに立派になっていたとしても、
私と同じことを感じたことがあるのでは、と思う。
だからそういう者同士、会って話すとどこかしら安堵するのだろう。
自分の生まれ育った町のことを包み隠さず話せる仲間。
何十年かずっと心の奥底にしまって蓋をしてきた、そんな意識でつながっている気がする。
生まれた場所を離れて長く経ち、どんなに自分の記憶の履歴を消し去ったとしても
人生に秋風が吹く頃には、ひとは不思議とそこへ呼び寄せられる。
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